日本産業史(注1)によれば、近代企業家は三つのタイプに分けられる。指導者型、政商型、それに通常型の企業家である。指導者型の企業家というのは、多くの幅広い分野の産業の発展に尽力したまさにリーダー格の企業家であり、政商型は政府の特別の保護を受けることによって企業の発展を導き出した実業家、そして通常型は、上記のいずれにも属さない企業家である。
指導者型の代表には渋沢栄一が挙げられる。政商型の典型は、政府の権力と結びつき、その手厚い保護によって海運事業を拡張し財をなした三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎である。三井銀行と三井物産の設立に腕を振るったコ一井の三野村利左衛門も、コ一井銀行の設立にあたって政府高官に働きかけ、官金の取り扱い継続の保証を確保したり、三井物産についても、政府から荷為替業務を営む許可を獲得して新会社の主要な仕事としている。彼もまた政商の一人であった。この他、安田善次郎、大倉喜八郎、古川市兵衛、浅野総一郎、川崎正蔵なとも政商タイプで、政府に働きかけ有利な条件を得て事業を拡大していった。安田は官金取り扱いを通じ、大倉は軍需品の輸入により、古川は鉱山、浅野はセメント工場、川崎は造船所の払い下げによって事業の基礎を固めたのであった。一方、明治中期までの工業の中心をなした繊維工業においては、前述の二つのタイプに属さぬ企業家が多かったといわれる。通常型とでもいうべき企業家で、大阪紡の山辺丈夫、三重紡の伊藤伝七、片倉製糸の片倉兼太郎、小口組の小口善重などがこれに当る。また銀行業でも、商人または農村出身の通常型の企業家も多かったという。
このように三タイプに分類される企業家の出自はどのように構成されていたのであろうか。明治期全体の企業経営者の出自を調べると、士族出身者が全体の四八%を占めていたようだ(注2)。「士族階級があらゆる産業分野で最も数多く、活発に活躍したことがわかる。士族が我が国の工業化に貢献したと言われるゆえんである」(石川健次郎、一九七六年)と評価されている。さらに言えば、公務員に占める士族の割合は四一%にのぼった。官の分野においても、民(産業)の分野においても、土族はその中心となって明治国家を支えたわけである。「一八六八年の維新は、「ブルジョワ革命』、即ち経済的に困窮した中間階級の側から『封建制』を打倒して経済的自由を克ちえようとする試みとして理解することはできない」(注3)。というベラーの指摘は正鵠を射たものと言えよう。ベラーはさらに続ける。「武士階級のみが徳川時代の日本において基礎的な社会変革の運動を導くことが出来たのであり、何よりもまず政治的|天皇主権を回復し、国力を増大しようとする要望ーであり、そして、彼らが新たに作り出した近代国家という機構を利用して、国力増大という主要な目的から経済の発展を奨励したということである。……新しい産業の主導権をとりわけ武士が取ったことは、驚くことではない。古い法律上の階級差別は廃止され、武士が産業界に入るのは禁じられず、むしろ奨励され、工業技術の訓練を望む武土に対して、特に政府は奨励した。武士にはこれを主導する資質があったが、徳川時代の商人にはこれはなかった」(注4)。
心学が町人に説いた教えは、武士に匹敵する高い倫理観(正直と倹約という禁欲主義)を持って世俗の営みを行い、国家に没我的忠義を励むことであった。他の宗教も、農民を含む民衆に、従順、勤勉、質素、倹約を浸透させた。江戸時代において庶民に対する宗教―倫理活動は、権力を打倒するための政治や経済力を彼らに養わせるものでは全くなく、むしろ近代日本のために彼らを意欲的で質の高い労働力として育てるとともに彼らにそのための心の準備をさせるものであったことは、すでに前節で見たとおりである。
もちろん、町民や農民の中には気概と才覚を持ち、青雲の志に燃えて広く世の中に役に立つ産業を興そうとする人たちもいた。彼らは自由であるべき経済活動をコントロールしようとする官の権力を潔しとしない気風も持っていたろう。出自か=りすれば農民出身の渋沢栄一もその一人であった。こうした人物が近代日本を代表する指導型の企業人であったのは、我が国にとって幸せなことであったといわなければならない。