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1-01市長就任はすべての「改革」の始まりだった  ~バブル崩壊後の厳しい財政を引きずる市川市

 

1-01市長就任はすべての「改革」の始まりだった
~バブル崩壊後の厳しい財政を引きずる市川市

 市長の任期は何年か知っていますか。そう、四年です。
 長いようで、まとまった仕事をするには非常に短い。私は結果的に二選、三選され、三期目の途中を歩んでいます。しかし、最初から「自分は三期やるつもりだから十二年間で公約を実行しよう」なんて考える候補者はいません。市長を選ぶのは有権者の意思です。次の選挙のことは誰もわかりません。
 ですから、選ばれたその任期で思いを完結させるのが鉄則。もっとも、選挙の公約に掲げたこと、思っていることにすぐに着手できればいいのですが、下地づくりにかなりの時間がかかります。そうするとまるまる四年が使えません。私の一期目がまさにそうでした。
 私の就任したとき市川市にとっては、財政が非常に厳しい状況のときだったのです。私は市会議員、県会議員をしていましたので、地方の財政がどういう状況にあるかは知っているつもりでした。ですから、選挙の公約にも行政改革を掲げたのです。
 しかし、はっきり言ってこれほど重症だとは思っていませんでした。たとえてみれば、給料(収入)は減っているのに、医療費や学費やローンの支払いは増えている、貯金はほとんど食いつぶしてしまって、逆に膨大な借金もある、そういう状態です。
 それまでの財政運営が上手くいってなかったと言うのではなく、バブルがはじけ、金融機関も倒産するようなどん底の景気を反映していたわけです。市川市だけが特に悪かったのではありませんが、とにかく財政を立て直さないと何もできない。そう私は思いました。
 そのくせ、翌年(平成一〇年度)にオープンすることになっていたリハビリと老人保健施設を直営で運営することを決めていたこともありました。それを聞いた私は「今からでもいいので、委託にできないのか」と主張したのですが、「もう職員を採用することにしているので、戻れません!」と突っぱねられたのです。
 「これは一筋縄ではいかない。どうしたものか」。市長選挙当選の興奮も冷めやらぬうちに、こんな厳しい現実を突きつけられ、はっきり言って途方にくれました。
 しかし、考えてみれば、市民が私に市政を任せてくれた、私はその期待に応えなければならないのです。しかも四年という任期の中で……。
 「よし、私の手腕を発揮するチャンスだ。この厳しい状況から抜け出し、この市川市をもっともっと住みよい街にしてみせるぞ」
 私は自分に誓いました。

 

1-02土日返上、会議は朝八時から ~「何かが変わるぞ」と期待と不安の職員

 市長の任期の始まりは、前市長の任期のあとです。
 市長選挙(平成九年一一月三〇日)から、私が初登庁した十二月二五日までは一ヶ月近くありました。その間、私は当選していたものの正式には市長ではなく、決裁もできません。しかし、任期の開始を待ってはいられません。
 そこで市役所外の場所を借りて、各部の部長から非公式のヒヤリングをしました。市の予算は普通、一〇月ごろまでに各部から要求が上がってきます。国でいうと省庁からの概算要求です。それを財政部門で査定して、財政部原案(財務省原案で)を作るのが十二月、そして市長査定を経て市の予算案となるのが一月中旬。しかし、この年は前任の市長が新年度の予算を作るわけにはいかないため、私の考えを入れる余地があったのです。
 十二月二五日、いよいよ初登庁。出迎えた職員から花束を受け取り、早速、市長の椅子に座りました。第二二代市川市長の任期の始まりです。議場に集まった幹部職員に対して私の抱負を述べたのち、早速、仕事にかかりました。
 年の暮れですから、年内はのんびりして、新年から始めたらどうですか、と助言してくれた人もいました。しかし、一月には、選挙のため開催が延ばされていた十二月市議会が控えています。しかも、その議会が終わると、すぐに定例の二月議会、いわゆる予算議会が始まります。
 私は年内の残された時間を目いっぱい使うことにしました。
 土日返上で各部の部長、課長から各部の懸案事項や新年度予算計上の説明を聞くことにしたのです。平日、休日問わず朝八時から。通常の仕事に影響しないと考えたのでした。
 いままでどちらかと言えば、ぬるま湯に浸かっていた職員にはさぞきつかったでしょう。しかし、「何かが変わるぞ、自分たちもぼんやりしていられない……」。職員の心の中には、期待と不安が交錯したのではないかと思います。
 ヒヤリングでも、結構厳しい質問をしました。市民から見ると当然のようなことができていない。何かを聞くと前例がない、他市でやっていない、人が足りない、金がない……。
 要するにやらない理由を並べるのが上手いのです。先ほど述べたように職員を採用したから委託化は無理といった事業もありました。こうしてみると、私の考えを反映できる余地はいくらもなかったのです。
 これでは財政をいくら建て直したって、日本一の都市になんかなりっこない。職員の意識を変えなければいけない。これが一連のヒヤリングから受けた結論でした。

 

1-03部長室の仕切りを取りはずす ~コミュニケーションがとれる組織に変える

 市長に就任してすぐ、庁内や外部の施設などをまわりました。いままで市長が庁内を巡視するときは、助役(現在の副市長)や総務部長などもついてまわるのが慣例でした。そのため一大行事だったようですが、迎える各課では、いつ市長が来るのかを知っているので、事前に部屋を片づけ、仕事をやっているふりをすることもあったと言います。
 これでは、なんにもなりません。
 私はナマの現場が見たい、そう思ったのです。そのため、予定にも入れないで、時間があるとき、さっとまわるように変えたのでした。
 まさに不意打ちです。職員がボケッとタバコを吸っているところを目撃したこともありました(当時はまだ禁煙タイムを設けていただけで、部屋で吸っていたのです)。誰も客がいない窓口もありました。
 「ずいぶん暇そうだなあ」
 そう声をかけると、「今日はたまたまです。今度、忙しいときに見に来てください」と言われたため、その言葉を信じて、次に巡回したことがあります。しかし、誰もいない状況は変わりませんでした。
 ひとまわりして思ったのが、市民に接するカウンターが高すぎること、部長の席は衝立やロッカーで仕切ってあり、課員と隔絶していること、部長室の窓ガラスが曇りガラスで中が見えないこと、職員のネームプレートが小さく、しかもワイシャツ姿だとネームプレートもなく職員かどうか区別ができないこと、忙しい職員とそうでない職員の差が激しいことなどなど。改善しなければと感じたことは、たくさんありました。
 このうち部長室の仕切りは、すぐに取らせました。かつて部長の少ないころは、部長室にはちゃんとした個室があって、応接セットもありました。しかも総務部長ともなると、秘書や専用車もあったとか。
 そういうころに比べれば、いまは、かつての課長の数ほど部長がいるのですから、部長室などは作っていられません。
 それでもロッカーやパーテーションで仕切り、一応は「部長室」としていました。パーテーションとはいえ、課との間に隔たりがあり、コミュニケーションの障害になっているのは確か。
 狭い事務スペースで仕事をしている職員のことを思えば、部長も課員と同じ部屋で並ぶべきだと思ったわけです。
 仕切りを取り去ってみると、案外評判がよろしい。部長にも各課の仕事が見えるようになったためです。
 各課の部屋のドアの窓ガラスも透明なものにしました。中の職員の様子が廊下からわかります。
 これは市民には評判がよいが、職員からは歓迎されませんでした。落ち着かないからと窓のそばに観葉植物など置いたり、座席の向きを変えた部長もいました。
 それも何ヶ月かのことで、そのうち当たり前になってしまいました。
 その後、窓口のローカウンター化も進めました。こんな小さな積み重ねが、だんだんに職員の意識を変えていくのではないか、私はそう確信していました。